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ロウマッチの擦り方
■淡路島のマッチ工場 その1

 兵庫県津名郡津名町生穂(現淡路市生穂)にマッチ工場があった。

経過(経営母体)
 明治38年(1905) 清燧社の工場として創業
 大正 5年(1916) 瀧川燐寸(株)となる、良燧社と合併
 大正 6年(1917) 東洋燐寸(株)となる、帝国燐寸と合併
 昭和 2年(1927) 大同燐寸(株)となる、日本燐寸製造(株)と合併(スゥエーデン資本)
 昭和 7年(1932) 大同燐寸(株) (日本産業株式会社資本)
 昭和14年(1939) 日産農林工業(株)となる、大同燐寸(株)を合併
 平成 3年(1991) 兼松日産農林(株)となる、兼松デュオファスト(株)と合併
 平成28年(2016) 兼松サステック(株)と社名改称
 平成29年(2017) 当該マッチ工場廃業 111年の操業に幕を閉じた

創業の経緯
 この工場は明治38年生穂川河口に創業した。 そのいきさつは、地元の関浅吉が、後にマッチ王と言われることになる瀧川辨三のもとに日参し瀧川が経営するマッチ会社・清燧社の工場を誘致したものである。
 敷地は川をはさんで4,000坪、最盛期の従業員数は約300人、月産3,000マッチトンを作っていた。 近代化する以前の作業は、日の出から日没まで好きな時に来て好きなだけ作って好きな時に帰るという体制であったと聞いている。 今で言うフレックスタイム制、大部分が受取作業の出来高払いであった。 従って学校帰りの子供がお母さんの横に座ってマッチ棒をマッチ箱に入れてたりしていたそうである。
 大勢の人が100年以上職を得て生活し成長した貴い工場であった。
 私が赴任した昭和44年には、淡路島に4か所のマッチ工場があった。 淡路町には同じ日産農林工業の長浜工場、大谷マッチ本社工場,仮屋には大谷マッチの分工場、北淡町には吾妻マッチの工場があった。 今はどれもない。

日産農林工業(株)生穂工場の構成(昭和44年当時)
 従業員数 230人  月産 2000マッチトン

 制軸部   マッチの軸木を作る工程
   原木玉切り→素地剥き→撰板積み→軸刻→乾燥
 マッチ一部 マッチの頭付き軸木を作る工程
   軸木選別→軸揃え→軸列→頭薬浸点→乾燥→軸抜き
 マッチ二部 箱詰から仕上げの工程
   頭付軸木の集軸→箱詰→側薬塗布→内包装→外包装
 小箱部  マッチ箱を作る工程
   原紙裁断→筋付け→側箱貼り→引出貼り→側箱に引出セット

 生産商品構成
 並型マッチ    500マッチトン
 徳用型マッチ  1000
 寸二型・寸六型  500
  計      2000マッチトン(月産) 1マッチトンは並型で7200個
 並型・徳用型は荒物屋・スーパーマーケットの販売用
 寸二型・寸六型はタバコ用マッチと広告用マッチ(当時使い捨てライターはない)

 従業員230人の内30人は制軸部に所属、従ってマッチ部は200人、上記の商品構成で1人当たり10マッチトンの生産量になる。 後年マッチ一部の工程が自動マッチ製造機に置き換わると1人当たり20マッチトンの生産量となった。

黒田 康敬
2020年07月07日